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東京地方裁判所 平成元年(ワ)8916号 判決

原告 株式会社 大和不動産

右代表者代表取締役 田山力夫

右訴訟代理人弁護士 平井二郎

長井導夫

被告 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 小川原優之

主文

一  被告は原告に対し金一〇〇万六〇四〇円及びこれに対する平成元年八月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを七分し、その六を原告の、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、原告勝訴部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

【請求の趣旨】

一  被告は原告に対し別紙物件目録(一)記載の建物を明渡し、かつ平成元年七月一日から右明渡し済みまで一か月金二万円の割合による金員を支払え。

二  被告は原告に対し金五〇六万二〇〇〇円及びこれに対する平成元年八月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

四  仮執行の宣言

【請求の趣旨に対する答弁】

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

【請求原因】

一  原告は昭和六一年一二月一〇日、訴外遠藤正男から別紙物件目録(一)記載の建物(以下「本件建物」という。)を買受けるとともに、その敷地を訴外相川一雄から買受けた。

二  被告は当時遠藤から本件建物を賃料月額二万円、毎月末日限り翌月分を支払うとの約束で賃借しており、原告は右賃貸借契約における賃貸人の地位を承継した。

三  平成元年六月二日、原、被告間で、本件建物の賃貸借契約を合意解除し、被告は本件建物を明渡して原告代表取締役田山力夫(以下「原告代表者」という。)の妻光江所有の別紙物件目録(二)記載の建物部分(以下「みのり荘二号室」ということがある。)に移転し、同建物部分を賃貸借する旨の合意が成立した。

すなわち、右同日、被告が原告の事務所に本件建物の賃料を持参した際、原告代表者が被告と話合ったところ、被告は賃貸借契約を解約して本件建物を明渡すことに同意し、更に同日夕刻、みのり荘において、原、被告間で賃料等の諸条件を含め、みのり荘二号室を賃貸借することを合意した。被告からは、そのほか右二号室に神棚を作ること、同所で美容業の営業をすることを認めること、そのためコンセント電話を引込むこととの要求があったので、これらの点も合意され、また、引越業者に依頼して引越をするが、原告がその費用を負担し、被告はこれを監督することも合意された。このように合意が成立したので、原告は被告に対し、右二号室の鍵一個を引渡した。

四  被告は同年六月三日原告に対し、同月二二日に引越をして本件建物を明渡すことを約し、引越の日を決めたので本件建物やその敷地を売却してよいと告げた。

五  その後、被告からの指示で、原告は本件建物内にあった湯沸器や照明器具を取外し、業者に依頼してみのり荘内に取付けたり、神棚を取付けたり、不足のものを購入したりした。被告も自身でみのり荘内に物品を搬入した。

同月一三日、原告の依頼した運送業者が被告宅に行き、引越の打合わせと見積を行った。被告から細かな指示も出され、また二二日の引越が終わっても忘れ物があると困るので、一両日中は本件建物の取壊しを待っていてほしいとの注文も出された。

六  原告は、前記四のように被告から承諾を得ていたので、本件建物及びその敷地の売却を計画し、同年六月一五日、訴外関谷信子との間で本件建物を取壊したうえその敷地を代金六〇二一万円で売買する旨の契約を締結し、同人から手付金七〇〇万円を受領し、原告において契約不履行の場合は手付金の倍額を支払う旨約した。

七  ところが、被告は同年六月一七日原告に対し一方的に右合意を白紙に戻す旨通知して来た。

原告はこれに応じられない旨返事をしたが、被告は前記合意に従った履行をせず、同年六月一九日に原告の事務所に来てみのり荘二号室の鍵を無理に置いて行き、その後も原告に対し明渡しの義務がない旨記載した書面を送付し、原告は念のため被告の意思を確かめたがその態度は変わらなかった。

八  このような被告の態度からみて、被告が合意のとおり履行しないことは確実となったので、原告は本件建物の敷地の売買契約を手付金倍返しをして解約せざるを得ないと判断し、同年七月三日買主の関谷に対し手付金七〇〇万円を返還するとともに、同人と交渉して倍返しの金額の減額を求め、五〇〇万円を支払って売買契約を解約した。

原告はさきに売買契約の締結に当たり契約書に六万円の印紙を貼付し、また手付金の授受に当たり受領書に二〇〇〇円の印紙を貼付した。

したがって、原告は被告の債務不履行により五〇六万二〇〇〇円の損害を被った。

九  仮に明渡しの合意が成立しなかったとしても、原告は被告の指示に従って準備をし、その同意の下に敷地売却の契約を締結したのであって、原告が右のような契約をすることは被告も容易に予見することができた。したがって、被告が本件建物を明渡さないことによって原告が被った右損害は、民法七〇九条により被告が賠償すべきものである。

一〇  よって、原告は被告に対し

1 前記合意に基づき本件建物の明渡しを求めるとともに、

2 右合意の不履行に基づく損害賠償として

(一) 平成元年七月一日から右明渡し済みまで一か月二万円の割合による賃料相当損害金、並びに

(二) 五〇六万二〇〇〇円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成元年八月五日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求め、

3 予備的に、不法行為に基づく損害賠償として、右2(二)と同額の金員及び遅延損害金の支払を求める。

【請求原因に対する答弁】

一  請求原因一は認める。

二  同二は認める。

三  同三のうち、原告主張の日に被告が原告の事務所に賃料を持参した際、原告代表者から本件建物を明渡してほしいと言われて話をしたこと、同日みのり荘を見に行ったこと、鍵を預かったことは認めるが、同日原告主張の合意が成立したとの点は否認する。

四  同四は否認する。

五  同五のうち、被告がみのり荘内に湯沸器、蛍光灯、神棚を取付けてもらったこと、引越業者が被告方に下見のため来たことは認めるが、その余は争う。

六  同六のうち、被告が本件建物とその敷地の売却を承諾していたとの点は否認し、その余は不知。

七  同七のうち、被告が平成元年六月一九日みのり荘の鍵を原告に返したこと、被告が本件建物を原告に明渡さず、明渡義務のない旨の手紙を出したこと、被告が原告の確認に対し態度を変えなかったことは認め、その余は否認する。

八  同八は不知ないし争う。

九  同九は争う。

一〇  被告の主張

1 被告は明治四五年七月二八日生まれであり、本件建物は昭和二〇年七月一日被告の父が賃借しその死後被告が借家権を引継いだものであるが、被告は昭和二一年ころから本件建物において「銀座美容院分室」の名で美容院を経営し一人で生活している。

原告代表者は平成元年六月二日家賃を持参した被告に対し「土地が値下りを始めたので、妻の持っているアパートみのり荘に移ってもらえないか。」と申し出た。被告としては立退料等の条件が提示されるのを待って慎重に検討するつもりであったが、一応みのり荘については当日案内してもらった。被告は、営業補償も含め立退料等の条件が合意に達し本件建物から立退くとすれば、立退き先で今後も美容院の営業を続けたいと考えていたので、移転先については十分下調べする必要があり、みのり荘の鍵を預かった。また、みのり荘で実際に美容院の仕事がうまくできるかどうか試してみる必要があったため、夜仕事が早くすんだとき実際に試してみることにして、そのために必要な湯沸器と蛍光灯一本を被告の店から運んでみのり荘に取付けてもらった。

原告は被告の本件建物からの移転日として同年六月二二日を希望していたが、被告としては、立退料等の条件が合意に達するのならば、移転の日についてはできる限り原告の希望を入れるつもりでいた。

ところがその後立退料については何の協議もないまま、原告から覚書なる文書を突然渡され署名するように求められたが、そこには「建物明け渡し料」として一方的に金一〇〇万円と記載され、しかもその一〇〇万円も現実に被告に支払われるのではなく、みのり荘の保証金として差入れさせられ、一年に二〇万円ずつ五年間で全部償却されるという法外なものであった。そこで、被告はこのような条件では到底本件建物の合意解除には応じられないと、六月一六日原告事務所に電話で連絡したのである。

右のとおりであるから、原、被告間には本件建物の賃貸借契約の合意解除など一切成立していない。したがって、被告には合意に基づく明渡義務はなく、また債務不履行による損害賠償責任も生ずる余地がない。

2 原告の予備的請求は、いわゆる契約締結上の過失に基づく損害賠償を求めるものと解されるが、これは、一般に契約準備段階における信義則上の注意義務違反を理由とする損害賠償責任であると解されている。本件は、やり手の不動産屋である原告が、言葉巧みに一人暮らしの老女である被告を丸め込み、立退きの補償を全くしないまま本件建物から追い出そうとしたものの、被告がこれに気が付き、不当な立退き要求に応ずることはできないと断固断ったというのが実態であり、被告に信義則に違反するところはない。

また、被告が六月一六日にこれまでの交渉をすべて白紙に戻すと原告に伝えたのは正当な事由に基づくものであり、この点からしても被告が賠償義務を負うなどあり得ないことである。

【抗弁】

原告が平成元年六月一五日関谷との間に本件建物の敷地の売買契約を締結したのは、全面的に原告の落ち度によるものであり、原告が損害を被ったことについては原告に過失がある。

【抗弁に対する答弁】

抗弁は争う。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因一及び二は当事者間に争いがない。

二  原告は、原、被告間で平成元年六月二日本件建物賃貸借契約を合意解除し、被告は本件建物を明渡すことを約したと主張するので、この点について判断する。

右争いのない事実及び《証拠省略》によると、次の事実が認められる。

被告は、父が昭和二〇年本件建物を賃借したときから本件建物に居住し、昭和二一年から本件建物において美容院を営んでおり、父の死後本件建物の賃借人の地位を承継したものであるが、明治四五年七月二八日生まれで、現在一人暮しであり、美容院営業で生計を立てている。

原告は不動産業を営むものであり、昭和六一年一二月一〇日、本件建物を訴外遠藤正男から買受けて被告に対する賃貸人の地位を承継し、併せてその敷地(東京都葛飾区《番地省略》宅地六六・三六平方メートル)を訴外相川一雄から買受けた。

被告は平成元年六月二日家賃(当時月額二万円)を支払うため原告の事務所を訪ねたところ、原告代表者が、地価が下がっていることを報ずる新聞記事を見せ、損をしたくないからと言って、被告に妻の所有しているみのり荘に移転してほしいとの意向を示した。これに対し被告がみのり荘を見ると言うので、原告代表者と、同人の子で原告の賃貸業務等に携わっている田山元章及び原告の従業員寺本が、同日午後五時ころ被告をみのり荘に案内した。

みのり荘は本件建物から約四〇〇メートルの距離の所にある木造瓦葺二階建の構造のアパートで、昭和四八年に建築し原告代表者の妻の田山光江が所有している。本件建物は木造瓦葺平家建店舗居宅の構造の二軒続の長屋になっており、便所が汲取りであるのに対し、みのり荘は水洗である。

被告は、みのり荘一階の二号室を見せられて、日当たりもよいし、間取りも一人住まいには十分であり、原告にこれ以上迷惑はかけられないからこちらに引越すと申し述べた。そして、原告代表者が家賃は今までどおり月額二万円で結構ですと言うと、被告はそれでは気の毒だからあと五〇〇〇円出すと言い、また原告側から共益費、消費税、外灯代、共用水道代等を負担してもらうと話したところ、被告はこれを承知し、更に原告代表者は、被告が独り者なので、引越については原告が責任をもって運送屋を手配し、費用も原告が負担すると申し出た。被告は、美容院については、年だから今までのようにはやらない、古い友達を相手に小遣い程度になればよい、営業許可も取らないが、引越後も営業はしたいと言って、必要なコンセントを増やすことや照明器具、棚の設置、電話の引込み等について希望を申し出た。もっとも、被告は引越の日にちについてはもう少しほしいと言ったので、その日は引越の日取りは決めなかった。そして別に覚書を作成することとし、原告の側で作成したものを被告が弁護士に見てもらって判断するということになった。このような経緯から原告側では本件建物の明渡しとみのり荘への移転の話は決まったものと判断したので、被告にみのり荘二号室の鍵を一個渡した。

翌六月三日被告は原告方に電話をし、六月二二日に引越す旨及び本件建物を売りに出してもよい旨を伝えるとともに、被告方の湯沸器及び照明器具一器をみのり荘に付けてほしいと要請した。

六月四日には、被告は原告方に「借家料更新の件、ドライヤー用コンセント取付、電話、営業税務署申告額六二年度一三二五、七九〇円、六三年度一三八二、五〇〇円」と記載した一枚の紙を持参した。その際、原告代表者が覚書について、被告の知っている弁護士がいればそちらで作って下さいと言ったところ、被告は原告の方で作ってほしいと言った。そこで、田山元章は右の記載を参考にして覚書の案を作成し、そのころ被告に渡した。

その内容は、本件建物の明渡しに関し、原告が被告にみのり荘二号室を賃貸する条件として、契約期間は本件建物明渡し日(平成元年六月二二日)より無期限とし、更新料はないこととした上、賃料月額二万五〇〇〇円のほか、共益費、防犯灯電気料、共用水道料、消費税等の金額、支払方法につき具体的に記載し、更に、貸室内にコンセントあり、電話引込可能、引越に関する費用は原告が負担し被告が監督すること等を記載したものである。

六月一三日、被告は原告方を訪ね、弁護士に相談したところ、みのり荘で美容院の営業をしてもよいということと家賃の改訂に関する事項を書き入れてもらうようにと言われたと言い、また敷金を一か月分入れさせてほしいと申し入れた。そして、田山元章が、被告の賃料では賃貸人の損になるので被告に明渡料を支払った形にして償却して賃料に補填することにしてよいかと言ったところ、被告は自分の腹が痛まなければよいと返答した。そこで同人は覚書の修正案を作成して被告に交付した。

その内容は、原告が被告に対し建物明渡料として一〇〇万円を支払うこととするが、被告はこれを全額みのり荘二号室の賃借に伴う保証金として原告に差入れ、適正賃料との差額、礼金、更新料分として一年につき二〇万円を償却し、五年経過後に保証金はなくなるが補充はしないこと、賃料は五年間据え置くこと、被告は敷金として賃料の一か月分相当額を支払うこと、原告は被告がみのり荘の貸室内で美容院を営むことを認めること等の条項を前記の覚書案に付け加えるものであった。

被告は右修正案を弁護士と相談すると言って受取り、なお、この人が身寄りだから何かあったら連絡してくれと言って、萱原宏から被告宛の百貨店の配送伝票と講談社から被告宛の郵便の封筒を原告側に示した。

そして右同日、原告が手配した運送会社の者が引越の下見をするため被告方を訪れ、被告から自動車を駐車する位置についての指示を受け、同月二一日に引越荷物を梱包するについての打合わせ等をした。

この間、原告は、被告の要望により、みのり荘に湯沸器、棚、照明器具、神棚を取付け、換気扇を付け換え、これらに要した工事費用を全部原告が支払った。

六月一六日被告は田山元章に対し電話で、引越を延期したいと申し出た。そして六月一七日被告は同人に対し電話で、六月二二日に引越すのは取止めると通告し、営業権や営業補償も入っていない一方的なものでは今までのことはすべて白紙にすると申し出た。原告代表者は右通告のあった日の夕方みのり荘に様子を見に行ったところ、座敷にカーペットが置かれ、女性用のサンダルがあり、便所には掃除用具が置いてあり、被告が持ち込んだ蛍光灯が「このあたりの上へ吊って下さい。」と書いた紙片と一緒に置いてあった。

同月一九日被告は原告方を訪ねて鍵を返還した。

以上のように認められる(平成元年六月二日被告が原告の事務所に賃料を持参した際原告代表者から本件建物を明渡してほしいと言われて話をしたこと、被告が同日みのり荘を見に行ったこと、鍵を預かったこと、被告がみのり荘内に湯沸器、蛍光灯、神棚を取付けてもらったこと、引越業者が被告方に下見のため来たこと、被告が六月一九日に鍵を原告に返したことは、争いがない。)。前掲証人、代表者、本人の各供述のうち右認定に反する部分は採用しない。

右事実関係の下では、被告が原告からの申し出に応じて本件建物の明渡しを承諾したとみるべき状況は多分にあり、特に六月二日に被告が移転先として原告から提示されたみのり荘二号室を実際に見てこちらに引越すと言った上、賃料その他賃借の条件についても話し合い、被告が了承したばかりか、逆に賃料の増額を申し出る等のことがあり、また被告が移転後みのり荘で美容院を営業することを前提に、コンセント、照明器具、棚、電話の引込み等について注文を出し、更に運送人の手配、費用の負担等についても具体的な話をして、被告が原告からみのり荘二号室の鍵を受領した等の事実に着目すれば、その後の被告の言動と相俟って、被告がみのり荘に移転することを承諾したと見るべき事実関係は顕著に存在するということができる。したがって、原告が本件建物明渡しの合意が右同日成立したと主張するのも理由なしとしない。

しかし、ひるがえって考えると、被告は四〇年余にわたって本件建物に居住し、当時七六歳で一人暮らしであり、本件建物において営む美容院の収入で生計を立てていたものであり、このような境遇にある被告が、原告代表者から本件建物の明渡しを求められ、その日のうちに移転先に案内され、それが気に入ったからといって、一回の話合いで即日明渡しの合意をするということは考えにくいことである。前認定のような状況の下で、被告がその場で本件建物を明渡すとの確定的な意思を表明したもの、換言すれば翻意の余地のない最終の意思として明渡しを約束したものと認めるにはちゅうちょせざるを得ない。

前認定によれば、六月二日に、被告がみのり荘二号室を見て、本件建物より新しいこと、日当たりがよいこと、便所が水洗であること、賃料が安いこと等からみのり荘を気に入り、ここを移転先として本件建物を明渡す意向を持つに至ったことは容易に推認することができるが、被告としては、引続き移転先で美容院営業をするにしても、規模を縮小してのことであれば収入が減ることは目に見えていることであり、小遣い程度の収入が得られればよいといっても、ことは慎重考慮を要する事項に属し、あとさきを考えずに即断できることではなく、事柄の性質からいっても、前認定の事実関係の下で本件建物の明渡しについて被告の確定的な意思の表明があったと認めるのは相当でない。そればかりでなく、原告は被告との間で覚書を作成することを予定していたことはさきに認定したとおりであり、契約当事者間で書面を交わして建物の明渡し及び移転先の賃貸借について条件を確定するというのは自然の成り行きであって、覚書の内容を確定し互いに異議のないことを確認して調印するまでは本件建物の明渡しについて確定的な合意は成立しないというのが原、被告双方の意思であったとみるのが相当である。

すなわち、被告は、みのり荘に移転してもよいとの意向を原告側に示し、その場合の希望を述べたものの、確定的な意思決定は後日覚書を作成するまで留保したものとみるのが相当である。したがって、平成元年六月二日に原告主張の合意が成立したと認めることはできない。

なお、六月三日以後における被告の前認定の言動は、六月二二日に引越をすると申し出たことを含め、被告が本件建物の明渡し及びみのり荘への移転を予定して行動していたことを示すものであるが、被告が大筋においてみのり荘への移転を了承したうえ、なお覚書の調印までの間は確定的な意思決定を留保していたとみれば、それなりに理解できないものではなく、右のような事実があるからといって、さかのぼって六月二日の時点で原、被告間で本件建物の明渡しについて確定的な合意が成立したとみることはできない。

右のとおりであるから、本件建物明渡しの合意が成立したとする原告の主張は理由がなく、したがって、これを前提として被告に債務不履行があったとする主張も理由がない。

三  原告は、被告の言動により本件建物明渡しの合意が成立したと信じ、そのために損害を被ったと主張するので、この点について判断する。

《証拠省略》によると、前認定の経緯の下で、原告は、六月三日に被告から六月二二日に引越す旨及び本件建物を売りに出してもよい旨を告げられたところから、広い通りに売り物があったら欲しいと言っていた関谷信子に売却することを考え、六月一五日、同人に対し、本件建物を取壊し敷地を更地として代金六〇二一万円で売渡し七月末日までに明渡しの手続を完了する旨の契約を締結し、手付金として七〇〇万円を受領し、売主の義務不履行で契約が解除されたときは売主は既に領収済みの手付金の倍額を支払わなければならない旨を約束したこと、ところが被告が引越を取り止めたと言って本件建物の明渡しに応じなくなったため、関谷との前記約定の日までに右土地を引渡すことができないことが確定的になったこと、そこで原告は関谷と折衝し、手付倍返しの約定に基づき一四〇〇万円を同人に支払うべきところ、手付金七〇〇万円を返還するほかは五〇〇万円を支払えばよいとの了承を得、七月三日同人に対し一二〇〇万円を支払って敷地の売買契約の解消に応じてもらったこと、原告は関谷との間の売買契約書に貼付した印紙六万円分のうち三万円分及び右一二〇〇万円の領収書に貼付した印紙二〇〇円分を負担したこと、以上の事実が認められる。

ところで、前認定の事実関係にみられる被告の言動については、さきにみたように、被告が原告からの申し出に応じて本件建物の明渡しを承諾したとみるべき状況が多分にあり、特に六月二日に被告がみのり荘を実際に見てこちらに引越すと申し出たこと等前示の事実関係に着目すれば、その後の被告の言動と相俟って、原告が本件建物明渡しの合意が右同日成立したと考えたのも理由のないものとはいえない。しかも、被告は六月三日原告に、六月二二日に引越す旨及び本件建物を売りに出してもよい旨を告げたのであるから、本件建物の明渡しの合意が確定的に成立していなかったとはいえ、原告において被告の右言明を前提とし六月二二日には本件建物を明渡してもらえると信じて本件建物の敷地を売却しようとしたのは無理からぬことというべきである。被告としては、六月二日にみのり荘に案内されて気に入ったため、本件建物の明渡し及びみのり荘への移転を予定して、右のように言明したものとみられるのであるが、正式には覚書の調印をもって本件建物の賃貸借契約の合意解除、明渡し及びみのり荘二号室の賃貸借契約の締結をする意思であって、その時点ではいまだ右の点について確定的な合意に至っていなかったのであるから、相手が専門の不動産業者であることをも考慮すれば、軽軽に明渡しの期限を予告したり当該物件を売りに出してよいなどと言明して、これを信じた原告が顧客との間に右物件につき新しい取引に入り、万が一右合意が成立しなかった場合に不測の損害を被ることがないように注意すべき信義則上の義務があったといわなければならない。

ところが、被告は右注意義務に違反して前記のように言明し、そのためこれを信じた原告は本件建物及びその敷地を売渡す契約をしたのであるから、その結果原告が損害を被ったのであれば、被告は民法七〇九条に基づきこれを賠償すべきものである。

ところで、原告は、関谷と減額のための折衝をして支払った前記五〇〇万円のほかに、関谷との間の売買契約書に貼付した印紙六万円分と手付金の受領書に貼付した印紙二〇〇〇円分の損害を被ったと主張するが、右印紙代については、前認定のように原告は契約書に貼付した印紙代六万円のうち三万円及び手付金返還等の受領書に貼付した印紙代二〇〇円を負担したにすぎず、そのほかはこれを認めるに足りる証拠がない。

したがって、右五〇三万〇二〇〇円が被告において賠償義務を負う損害であるということができる。

四  被告は、六月一六日に従前の交渉を白紙に戻すと言ったのは正当な事由に基づくものであるから、被告は損害賠償義務を負わないと主張するが、《証拠省略》によると、被告は覚書の修正案をもっても十分な営業補償が得られないことを不満として前記の言明を翻したものと認められるが、さきに認定した原、被告間の交渉経過に照らすと、被告がこの時点で翻意したことはいかにも唐突であり、仮に営業補償を望むのであれば、それなりの交渉の仕方があり、これに応じて原告も明渡しの条件を検討する余地があったとみられるのであって、被告の損害賠償義務を免れさせるような正当な事由があったとは考えられない。したがって、右主張は採用することができない。

五  被告は原告に過失があると主張する。

原告が関谷との間で本件建物の敷地の売買契約を締結した時点において、被告との間の本件建物明渡しの合意は未だ確定的に成立しておらず、覚書の調印をもって成立すべきものであったことはさきにみたとおりである。

原告は、このような段階における物件の売買においては、卒然と確定的な売買契約を締結するのでなく、被告が言明した明渡しの日である六月二二日は目前に迫っていたのであるから、例えば、それを待ってから正式の売買契約を締結するとか、あるいは、手付金を受領すれば逆に自己が手付倍返しの危険を負うことになることに思いを致し、この段階では手付金の授受はしないことにする等の配慮をすべき注意義務を負っていたといわなければならない。ところが原告はこのような注意義務を尽くさず漫然と関谷との間に契約を締結し、前記のような損害を被ったものであり、この点において過失があったといわなければならない。

そして、原告が不動産業者であることを考えると、右損害につき原告の過失の占める割合は八割であるとみるのが相当である。

そうすると、被告は右損害五〇三万〇二〇〇円の二割に相当する一〇〇万六〇四〇円についてこれを原告に賠償すべきものである。

六  以上のとおりであって、原告の本訴請求のうち、被告との間に本件建物明渡しの合意が成立したことを前提として本件建物の明渡し及び債務不履行による損害賠償を求める部分は理由がないから、これを棄却すべきであるが、不法行為に基づく損害賠償を求める部分は、被告に対し一〇〇万六〇四〇円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成元年八月五日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、これを認容し、その余は棄却すべきである。

よって、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 新村正人)

〈以下省略〉

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